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アルプスを6度越えた
過酷な山々を160km!!走り抜ける47歳のトレイルランナー
トレイルランナー鏑木 毅
text / Rika Okubo
「ひたすら走るDoingだけでなく、変化のある道を
自らの身のこなしで楽しむBeingなスポーツである。
どんなに地獄を見ようとも、楽しくて、
僕にとっては遊びの延長にある。」
人生を再度、走り始めた日
1997年、10月6日。鏑木が後に「流されるような人生にうっすらと光が差し始めた。」と語るように、それは特別な日となった。29歳の誕生日を迎える少し前だった―。
地元の群馬県庁で働いていた鏑木は、地元新聞である一枚の写真と出会う。山の中を颯爽と駆けるランナーの写真。一目で恋に落ちた。この時誰も、後に鏑木がトレイルラン世界最高峰のレースUTMB(※1)で日本人として初めての3位入賞という快挙を成し遂げ、その名を世界中へ知らしめることになるとは知る由もなかったが。
この記事との出会いから一年、鏑木はその日を迎える。一年前にまさに写真で見たレース“山田昇記念杯登山競争大会”で、初出場ながらなんと優勝を果たしたのだった。
中学、高校、大学と夢中で取り組んだのは陸上だった。進学した早稲田大学では競走部に入り箱根駅伝を目指した。怪我をきっかけに夢破れ、引退を余儀なくされた後、心にぽっかりと大きな穴が開いた。箱根駅伝は、少年時代から焦がれ続けた情熱だった。その穴は大学卒業後、高倍率で勝ち取った役人という職でも決して埋めることはできなかった。
トレイルランニングは、そんな鏑木の人生に一筋の光を差してくれた。
※1 ウルトラトレイル・デュ・モンブランの略で、ヨーロッパアルプスの最高峰モンブランを取り巻く山岳を100マイル(160㎞)走るトレイルランニングの世界大会。
朝から晩まで山を走る
走ることはもとより、両親の影響で山が大好きだった。鏑木は、トレイルランナーの能力として一番にこれを挙げている。日の出から日没まで、日がな一日山を走り続けられる。身体は当然苦しかったが、心が疲弊することはなかった。朝、まだ暗いうちにヘッドライトをつけて走り始めると、日の出と共に見たことのない美しい光が差し込み、動物たちが動き始める。そんなドラスティックな空気の変化を目の当たりにすると、言葉にならないほど充足した気持ちになった。
五感で自然を感じ、走り続け、知らぬ間に10時間以上経っていることもざらだった。陸上競技をやりながらいつも考えていたのは、一秒でも速い記録を狙うことと、相手を上回ること。それが心を疲弊させることも少なからずあったが、トレイルランニングでは、何よりも自然を相手に、自分を見つめることが重きになった。
役人とトレイルランナーとの二足のわらじを履き続けながら、鏑木は2005年、国内3大レース(※2)を全て制覇。国内敵なしとなった彼は、2007年、ついにトレイルランニング世界最高峰の戦い、UTMBへの切符を手にする。標高4810mのモンブランを中心に山郡を一周する100マイル(160㎞)コース、トップランナーでさえ21~22時間をかけて戻ってくるという過酷極まりないレースである。ここで鏑木は人生を変える大きな出会いをすることになる。
※2 富士登山競争、北丹沢12時間山岳耐久レース、日本山岳耐久レース
死に花咲かせに行く戦い
鏑木は初の160kmレースを24時間24分、第12位という結果でゴールする。全身を酷使し、あまりの痛みで疲れ果てているのに眠ることもできない。そんな中仕方なくテレビをつけると、ちょうど同じレースのゴールシーンが映し出されていた。白髪交じりの初老男性。フランス語が聞き取れず、こんな歳の人まで走っているのかと眺めていた鏑木は次の日、表彰式で打ち抜かれるような大きな衝撃を受けることになる。
マルコ・オルモ、前年度に続き優勝――。前日テレビで見た、あの男性であった。当時、59歳。39歳の鏑木に、3時間という差をつけての優勝だった。その時鏑木が抱いた彼への強い憧れは、これからも160㎞を走り続けること、15年間勤めた役人を辞め、トレイルランニングの道を邁進することを強く後押しすることになった。後にも先にもない大きな出会いだった。
この翌々年度、2009年のレースがプロとして初めて迎えるUTMBとなった。NHKが密着する中臨んだこの大会は、自分ではない、まるで神様のような何かが後を押してくれるような最高なレースだったという。コースアウトし、一度は順位を20位まで落とすというハプニングに見舞われたものの、諦めず力を尽くした結果、見事第3位という快挙でゴールを遂げた。鏑木の代名詞となるレースは、この2009年のUTMBとされることが多いが、実は自身が自分史上最高とするレースはこの2年後2011年のUTMBだという。実は、今までの蓄積からくる全身のひずみに加え、左足のアキレス腱の怪我で満足のいくトレーニングができないまま、当日を迎えていた。メディアが密着し、スポンサーや応援者からのプレッシャーが重くのしかかる中で、身体は本調子の半分にも満たない最悪な状況。走り続けると絶望的に肉体の苦痛が増し、意識を失うほどの痛みを伴った。このままでは死んでしまうとさえ感じていた。
「この崖から飛び降りて、地獄を終わりにしたい。」幾度となくそんな思いが頭をよぎった。足を止めてリタイヤすることは絶対に許されない。負けて、無様な自分をさらすこともできない。崖から落ちて大怪我でもすれば、プライドは保つことができる。それほど追い込まれていた。
何十回、何百回自問自答を繰り返した後、鏑木はついにこの絶望的な状況が終わる瞬間を迎える。なんと第7位でゴール。目に見えない何かが背中を押してくれるような瞬間は一度もなかった。追い込まれて追い込まれて、死ぬほど追い込まれた状況の中でも自ら乗り切り、結果を残したことで、心から自信と誇りを感じることができた。自分に勝ったのだ、そう思った。
死ぬかもしれない、と思ったのは一度ではない。落石事故にあい、流血をテープでおさえながら標高4000mの山を登降したこともある。突然天候が変わり、雷雲の中を前へと突き進んだこともあった。夏の猛吹雪にあい、低体温症で生死をさまよったこともある。それなのにいつもいつも、ゴールする瞬間こう思うのだ。自分は心底この過酷なレースが好きで仕方ない、と――。
逆境と大好きな気持ち
順風満帆とは言い難い人生だった。幼少期はいじめの対象だった。叶えたかった箱根駅伝という夢は、苦悩と挫折で終わった。10代20代は、到底このまま生きていても良いことなどないと思っていた。しかし、トレイルランニングと出会った――。今は、逆境が自分をここまで突き上げてくれたと思う。あれは鏑木毅を作り上げるプロローグに過ぎなかった、と。全ては財産としてこの手にあったのだ、と。
現在、47歳。50歳まで160kmの世界でやっていこうと思っている。もちろん勝負にはこだわるつもりだ。老いていく自分も含めて生き様を見せたい。そして、自分が中心となって、トレイルランニングというマウンテンアクティビティをカルチャーにしていく。
きっと、死ぬまで山を走っているだろう。鏑木はこの大好きな競技を通じて大いなる遊びを続けていく。
人生で大切なものを円グラフで表してください。
「家族」「トレイルラン」
歳を追うたびに家族の割合が増えてきましたね。
すごくシンプルです。
Profile
鏑木 毅 TSUYOSHI KABURAKI2009年世界最高峰のウルトラトレイルレース「ウルトラトレイル・デュ・モンブラン(通称UTMB、3カ国周回、走距離166km)」にて世界3位。また、同年、全米最高峰のトレイルレース「ウエスタンステイツ100マイルズ」で準優勝など、47歳となる現在も世界レベルのトレイルランニングレースで常に上位入賞を果たしている。 著書に「アルプスを越えろ!激走100マイル(新潮社)」「トレイルランニング入門(岩波書店)」など。