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海の旅を27年にもわたって続けている『日本シーカヤック界の第一人者』
数々の過酷なレースを経験してきた彼を、海洋の旅へ連れ出したシーカヤックとの出会いをご紹介します。
海洋ジャーナリスト内田 正洋
日本のシーカヤックの火付け役として、海からの視点で日本を見つめる海洋ジャーナリストの内田正洋さん。
バハ1000、パリ・ダカール・ラリーと数々の過酷なモータースポーツのレースを経験してきた彼を、海洋の旅へ連れ出したのがシーカヤックとの出会い。海の旅を27年にもわたって続けているシーカヤックの魅力について話を聞いた。
人が海の動物に近づく道具
「シーカヤックは、人を海洋ほ乳類にする道具。」と内田さんは、シーカヤックをそう表現する。そもそもカヤックの原型は、アラスカのイヌイット(エスキモー)の人たちが漁猟のために作り、木を骨組にして、動物の皮を被せたもの。長い時間カヤックを漕いでいると、船という感覚を越えて、カヤックと下半身が一体化しあたかも自分が海の動物になったように感じるそうだ。人間が海に馴染める道具としてシーカヤックは最適であるのだと内田さんは言う。
自然を敬うこと
当初シーカヤックは、海を冒険できる道具として内田さんの心を捉えていた。どこを見ても水平線しか見えない晴れ渡った外洋に、カヤックと合体した自分だけがいる。地球上に自分しかいないのではないかという錯覚、途方もない開放感が魅力的だった。海で過ごす時間の中で、必然的に自然と人間との向き合い方を教えられてきた。それと同時に、古来の人たちも同じように海を渡ってきたことに気がついた内田さんは、自分が冒険ではなく旅をしているという感覚へ変化していったのだ。「自然に逆らっちゃいかんということがはっきりとシーカヤックで改めて分かったんです。だから冒険をしなくなくなりました。自然に逆らうことが冒険だったら、とっくに死んでいますから。」佐世保の海で育った内田さん。小学校の時に見た三船敏郎主演の「怒濤一万浬」の映画でマグロ漁に憧れを抱き、大学では水産学科遠洋漁業を専攻していた。海の自然がどれだけ壮大で厳しいものかは、幼い頃から実感する機会が多かった。そうした経験が身体に染み付いていたことで、シーカヤックをやることによってさらに海への敬意、海から見た日本への想いを深めることとなる。「海への恐れが変化していったんです。恐れが“畏れ=かしこいもの”という意味の方になって、賢い人は恐れを知るということで…。自然に負けないようにするには、臆病になった方がいい。海に包まれて生かされている敬意を持ってないと。でも、こういった感覚は、日本人特有の考え方だと思います。」
1992年は、西表島から東京湾までを漕いだ。西表島から直接久米島を目指した400キロの距離を体感した。
この距離が、日本列島からアラスカまでの最長の海峡横断の距離。シーカヤックでアラスカへ行けることが、実感できた旅だった。
海を旅する
シーカヤックとの出会い
シーカヤックとのとの出会い
神奈川県三浦郡長者ヶ崎海岸に、ポツンと白いシーカヤックに乗って海から登場したのは海洋ジャーナリスト内田正洋さん。
海からの視点で海洋教育や海洋レクリエーションの普及に努めながら、葉山を拠点にシーカヤックで旅を続けている。
「シーカヤックとの出会いはとんでもないものですよ。」と1987年に出会ったシーカヤックの印象を内田さんは語る。
当時、デザートジャンキーとして砂漠に取り憑かれ、パリ・ダカール・ラリーやカリフォルニア半島を舞台に走行距離約1,000マイル(1,609km)のタイムを競うバハ1000などのデザートレースに参戦。過酷なレースを幾度なく乗り越えていた。レースに参戦する傍ら、ジャーナリストとしても活躍していた内田さん。アウトドア雑誌の取材でカリフォルニアにあるシーカヤックショップに初めて訪れたのが海洋ジャーナリストになるきっかけだった。
「そこのショップにカリフォルニアからハワイにかけて線が引かれた太平洋の地図が飾ってあったんです。ショップの人に“この線はなに?”って訪ねたら、来月その線をシーカヤックで旅をするんだと言うんだよね。カヤックでハワイまで行くなんて、馬鹿なって思いました。」
冒険家として世界を飛び回っていた内田さんに衝撃を与えたショップの人物は、ED GILLTE(エド・ジレット)氏。彼は、1人でシーカヤックに乗ってカリフォルニアからハワイまで横断するといい、内田さんに海水をポンプで真水にする装置を装備した航海用のカヤックを見せた。その後、彼は本当に単独でハワイ目指して旅立っていった。そして、予定していた航海日数を遥かに越えていたが、63日後にマウイ島にひょっこり現れたそうだ。
彼の凄さにすっかり感化された内田さんは、自らのカヤックのポテンシャルを試そうと1991年に台湾?九州、1992年には西表島?東京湾とシーカヤックで数々の航海を重ね、シーカヤックの世界にのめり込んでいった。
01.サハラ沙漠、ニジェールにあるテネレと呼ばれる砂丘群にある唯一の目印「テネレの木」の前で。1991年、最後のパリダカール挑戦。
02.1982年から1991年まで「パリ ダカール・ラリー」に8回出場。25歳から34歳まで、パリダカを中心に人生を送っていた。
海洋国家の日本を取り戻すために
「ここ葉山の海も25年くらい前は、海藻が沢山あって。カヤックを出す時に海藻やアマモがパドルに絡まって邪魔臭いなっていう感じで、その浅瀬の磯を越えると海の世界に辿り着く。今は、パドルに全く海藻が絡まないんです。ほとんど死の海ですよ。だから当然、魚も減少しています。海の現状を見ていないから、スーパーでは輸入の魚が溢れている。見えない世界を見ようとしていないから、こういった悲惨な状況が続いています。25年のサイクルでこういう状況になったということは、今ここで転換すれば豊かな海に戻せると思います。海洋緑化運動(※)はそれを目指して始めた活動です。」内田さんは、自分が体験し感じたことから我々日本人が海洋民族として培ってきた文化を復興させようと海洋教育海中林の育成に力を注いでいる。そして、もう一度私たちが本来持っている力、海からの視点を持ち、再び豊かな海と共に活気を取り戻していくことを内田さんは願っているのだ。
※一般社団法人 海洋緑化協会
海の砂漠化抑止(海洋緑化)を目指し、海を本来あるべき姿に戻すために海洋環境回復・改善についての啓発活動と広報活動を展開している。
また、企業・関連官公庁・大学や各研究機関と連携し、特に海中における微量な鉄イオンの役割に関する実証・実験のサポートをしている。
海中の鉄イオンに関する研究は、世界でもいまだほとんど行われていない。
01.大学4年生の遠洋漁業実習で乗船したマグロ延縄漁船「日本大学号」。
太平洋を半年間にわたり航海し、ハワイ、オアフ島アロハタワー桟橋に停泊している日本大学号。
02.マグロ延縄漁の最中(揚げ縄)。
03.日本大学号を操船中。
04.1987年1月のパリダカ。前年に主催者だったティエリー・サビーネ氏がラリー中にヘリコプター事故で亡くなり、翌年は追悼としてラリーが開催された。この年の6月、シーカヤックと衝撃的な出会いをした。
05.1987年から1988年にかけて、北アメリカ大陸の北端から南アメリカ大陸の南端まで、オートバイで旅をした。5ヶ月間のツーリングだった。写真は、ボリビア。川で寸断された道を渡っている。
06.南アメリカ大陸の南端から、その南にあるフエゴ島に渡るフェリーに乗り込む。
07.1998年、ハワイの航海カヌー「ホクレア号」のナビゲーター、ナイノア・トンプソン氏が、我が家を訪ねてきた。古代の伝統航海術を復興させた彼は、ポリネシア全域の航海が終わったら日本列島を目指したいという意向だった。
それから9年後の2007年、ホクレア号はミクロネシアを経由して沖縄に到達。九州、瀬戸内海を経て、横浜まで航海した。その航海のクルーとしてホクレア号の伴走船「カマヘレ」号に乗り込み、日本国内の海をガイドした。
08.2000年に、ホクレア号はイースター島とハワイを往復し、ポリネシア全域での伝統航海を終えた。その帰還時にハワイへ行き、それから2007年の航海まで、ホクレア号の実際を日本に報告するためにハワイでの訓練に参加していた。
白いTシャツがナイノア氏。手前が内田正洋氏。
Profile
内田 正洋 Masahiro Uchida
海洋ジャーナリスト、日本レクリエーションカヌー協会理事。
海洋緑化協会キャプテン。
1956年長崎県生まれ。日大農獣医学部水産学科卒業。1982年に日本人初のチームACPメンバーとして“パリ・ダカール”に参戦。
その後、デザートレース“バハ1000”に4年連続出場。1987年にシーカヤックと出会い、日本にシーカヤック文化を積極的に紹介。海と砂漠を知る貴重なジャーナリストとして活躍中。また、日本シーカヤック界の第一人者として、東京海洋大学、横浜市立大学などで学生達にシーカヤックを教えている。