sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.18

波と出会って、自分をさらけ出し、
そして旅が始まった。

レジェンドサーファー出川三千男

サーフィン歴50年以上。日本におけるサーフカルチャーのフロンティア、
NO BRAND代表、出川三千男さんの生き方についてお話を伺いました。

波との出会い、全ての始まり。

出川は神奈川県鎌倉市稲村ヶ崎で生まれ育った。サザンオールスターズの歌詞にも登場し、桑田佳祐監督の映画、「稲村ジェーン」の舞台ともなった、サーフィンのメッカと言われる崎(みさき)だ。
出川の原点は全てここにある。父に連れられ海岸にやってきては、波打ち際で小さい波と戯れ、日がな一日時間を忘れ夢中で遊んだ。小学生になると今度は木製の小さなブギーボードを使って、波に乗りはじめる。目の前の海の面白さに、波の存在に、無我夢中だった。中学にあがっても、興味はつきない。SUPの原型を使い、立ち上がって波に乗ることを覚え、毎日のように海へと走った。学校の教科書は開かなかったが、USサーファーマガジンのページを擦り切れるまで繰った。この頃、横須賀や厚木から波を求めて鎌倉に来る外国人サーファーたちのフィンのついたサーフボードを見て、多大な影響を受ける。もちろん当時、日本にサーフカルチャーはない。彼らが電車に乗って持ってくるそのボードを次来るまで預かるという名目で、サーフボードと触れ、たまには拝借して波に乗り、サーフィンの根っこを身体を使って知っていったのだ。
生活の全てはそこにあった。とまらない興奮、創造することへの期待、足を踏み出すことへの恐れ、刺激的で、今でもどこかで繋がっている仲間たち。 思えば、波打ち際で無邪気に走り回っていたあの時、もう出会っていたのだ。一生をかけること。ずっと夢中になれること。そして、遠く離れても戻ることができる場所。

「68年からは、シェイパーやってるね。はじめは見よう見まねではじめて。自分で乗りたいボードがなくて、自分でチューニングしたくなって。あれが欲しいっていうんじゃなく、ないから作ってしまえっていう。
だから、いい時だったんだよね。何もなかったから。モノがあることが幸せじゃなく、なかったほうが幸せだったんじゃないかと思う。工夫があるわけ。
なんでも。どんな世界でも工夫ができたから、クリエイティブになれた。」

出川は、高校卒業と同時にサーフボードを作りはじめる。外国人の身長が6フィートくらいなら板の長さはこれくらいでワイドはこれくらい、と大きさをイメージしていく。参考にしたのは、USのサーフィン雑誌やレコードジャケット。材料は近くのヨットハーバーで分けてもらい、家の横で仲間達と試行錯誤を重ねた。そして、18歳の時に現在の活動の始まりであるサーフボードメーカーを起こす。
参考になるビジネスモデルは皆無だったが、とにかく前に進んだ。時は高度成長期のはじまり。会社勤めという道を選ばず、ひたすら海を追いかける生活に不安を感じないこともなかったが、波さえあれば、そんなことも忘れてしまうほど、サーフィンに没頭し、魅了されていた。
更に、東京オリンピックの2年後、1966年にサーフィンの全日本大会が開催される。1968年には、日本で初のサーフィン全日本大会が開催される。第一回大会から出場していた出川は、71年、念願の全日本優勝に輝き、名実共に日本のサーフィン界のトップに躍り出る。72年には出川を含む3名がサンディエゴで開催される世界大会へと出場を決めた。その後、現在のサーフィン連盟「ASP(アソシエーション・サーフィン・プロフェッショナル」の前身、「IPS(インターナショナル・プロフェッショナル・サーフィン)」を歴代のチャンピオンと共に発起する。日本におけるサーフィンの歴史に、いつも出川はいたのだ。

サーフィンで知り、サーフィンで感じた。

「サーフィンづくしの生活だったよね。
サーフィンをひたすらやるってことが良しとされなかったけど、こんな面白いことなんでやらないんだろうって思ってた。
とにかく無条件で楽しかったから。頭使って考えたらできないんだけどね。
はちゃめちゃだったよ。
サーフィンという価値観を共にしたら生活のレベルも、バックグラウンドも、宗教も、預金残高も、何も関係なくなるんだよね。
コンペティションでは人のことを押しのけてでもやらないといけないんだけども、フリーでサーフィンする時はみんな仲間だった。
サーフィンという共通するものの前にゲートは全くないから。」

「ある瞬間気づいた時があるわけ。
今はこれすごくいいけど、なんとなくダメになっていくだろうなあとか。
今までやってきて大変な時もあったけど、大抵その尺度が助けてくれた。
サーフィンをやってきたことで、異常なほどに感覚が研ぎ澄まされた部分がある。
天候も含めて、ものの動きとかにはとても気がつく。
だから、ちょっと草が動くだけで、ああ、風が入ったなとか、日常生活からすごく敏感。
都内で仕事してても、ふっと上を見る時がある。
雲の方向で風の動きが分かるじゃない。
僕らの時は波情報とかもないから、だんだんそういうのが強くなっちゃったんだろうね。
同じように、社会の流れみたいなものもそういう風に図っていると思う。」

~no brand~何もないということ。

1985年には、自身のライフワークであるサーフボードブランド『ノーブランド』を立ち上げる。ブランド創立から現在まで30年という年月を紡いできた。自分のためのコンペティションボードを製作するために、チューニングを重ね、そのエッセンスをブランドとして形作り、提供するボードに組み込む。ブランドは今も注文が絶えることなく、たくさんのサーファーたちに支持されている。この30年という歴史が、出川の“風をみる”力を物語っているのである。
ブランド名は、考えて、考えて、考えた先に“何もない――no brand”としたそうだ。それはまるで、片時も離れなかったサーフィンというツールを使って自分自身と向き合い続けた、現在の出川の気持ちを物語るかのようなネーミングだ。

--若いうちはつっぱている部分も虚栄もあります。
ある程度齢をとってくると、見栄も自負心もあります。
その中で、自分が本当に波に乗れてくると、そういうものが一切なくなる瞬間があるのです。
それが、10年20年30年経ってくると、そういうものがもっともっとどんどんなくなってきて、
自分は素で、何もかっこつける必要はないのだ、という新たな自分の発見があるのです。
波乗り入門 出川三千男著より--

ブランドを通じ、何にも変えがたいこの普遍的価値観を共有したい。自分に全てのことを教えてくれた、人生そのものである存在。
そう、サーフィンという。

今、思う何よりの価値。

1950年生まれの出川は、今年65歳になる。
七里ヶ浜の目の前にある自身のショップ、BLUE HORIZONには、結婚30年になる愛妻のえりさんが笑い、愛犬のジルがお気に入りの椅子に上がりくつろいでいる。セレクトされた服やジュエリー、そしてノーブランドのボードが並ぶ店の中は平日というのにお客さんで賑わっている。
波を求めて世界中を巡ってきた。サンセバスチャンで波から上がって飲んだワイン。パンと酢漬けとワインさえあれば良かった。アメリカ西海岸はサンフランシスコからサンタバーバラ、サンディエゴまで、仲間と一緒にどこでも行った。言葉など関係なかった。ハワイの文化は自分にたくさんの学びを与えてくれた。けれど、出川にとって帰る場所はただひとつ。出発点であるこの鎌倉の海岸だった。
まだ子供だった頃、はじめてサーフボードに立ったあの感覚。サーフィンに魅了され続け50年以上経った今でもずっと変わらずにいる。
そのための心の風景にいつもここがあった。
変わらないでいること。その本質は実は何より難しいことだ。けれど、難しいことは承知で出川は願っている。
どこまでも変わらずに生きていくこと、ここにい続けることを。

人生で大切なものを円グラフで表してください。

家族は、30年近く連れ添ったかみさんと俺と息子が一人いるんですが、やっぱりこのファクターは大きいかもしれない。
本当に大切に考えています。
あとは・・・人だね。はっきりしてます。

Profile
出川三千男 MICHIO DEGAWA

1950年神奈川県鎌倉市生まれ。1968年湘南学園高等学校卒業。同年米国遊学、ハワイ海洋文化に多大な影響を受け、帰国後、サーフボード製作会社を設立。その後、国内外の多くのサーフィン大会に出場し、70年代のサーフィン文化をリードする。以後、日本のサーフィン界の草分け的存在として活躍し、現在に至る。90年に公開された映画『稲村ジェーン』(桑田佳祐監督)の主人公のモデルの一人とも言われている。71年全日本アマチュアサーフィン大会優勝。