Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]
波と出会って、自分をさらけ出し、
そして旅が始まった。
レジェンドサーファー出川三千男
サーフィン歴50年以上。日本におけるサーフカルチャーのフロンティア、
NO BRAND代表、出川三千男さんの生き方についてお話を伺いました。
波との出会い、全ての始まり。
出川は神奈川県鎌倉市稲村ヶ崎で生まれ育った。サザンオールスターズの歌詞にも登場し、桑田佳祐監督の映画、「稲村ジェーン」の舞台ともなった、サーフィンのメッカと言われる崎(みさき)だ。
出川の原点は全てここにある。父に連れられ海岸にやってきては、波打ち際で小さい波と戯れ、日がな一日時間を忘れ夢中で遊んだ。小学生になると今度は木製の小さなブギーボードを使って、波に乗りはじめる。目の前の海の面白さに、波の存在に、無我夢中だった。中学にあがっても、興味はつきない。SUPの原型を使い、立ち上がって波に乗ることを覚え、毎日のように海へと走った。学校の教科書は開かなかったが、USサーファーマガジンのページを擦り切れるまで繰った。この頃、横須賀や厚木から波を求めて鎌倉に来る外国人サーファーたちのフィンのついたサーフボードを見て、多大な影響を受ける。もちろん当時、日本にサーフカルチャーはない。彼らが電車に乗って持ってくるそのボードを次来るまで預かるという名目で、サーフボードと触れ、たまには拝借して波に乗り、サーフィンの根っこを身体を使って知っていったのだ。
生活の全てはそこにあった。とまらない興奮、創造することへの期待、足を踏み出すことへの恐れ、刺激的で、今でもどこかで繋がっている仲間たち。 思えば、波打ち際で無邪気に走り回っていたあの時、もう出会っていたのだ。一生をかけること。ずっと夢中になれること。そして、遠く離れても戻ることができる場所。
出川は、高校卒業と同時にサーフボードを作りはじめる。外国人の身長が6フィートくらいなら板の長さはこれくらいでワイドはこれくらい、と大きさをイメージしていく。参考にしたのは、USのサーフィン雑誌やレコードジャケット。材料は近くのヨットハーバーで分けてもらい、家の横で仲間達と試行錯誤を重ねた。そして、18歳の時に現在の活動の始まりであるサーフボードメーカーを起こす。
参考になるビジネスモデルは皆無だったが、とにかく前に進んだ。時は高度成長期のはじまり。会社勤めという道を選ばず、ひたすら海を追いかける生活に不安を感じないこともなかったが、波さえあれば、そんなことも忘れてしまうほど、サーフィンに没頭し、魅了されていた。
更に、東京オリンピックの2年後、1966年にサーフィンの全日本大会が開催される。1968年には、日本で初のサーフィン全日本大会が開催される。第一回大会から出場していた出川は、71年、念願の全日本優勝に輝き、名実共に日本のサーフィン界のトップに躍り出る。72年には出川を含む3名がサンディエゴで開催される世界大会へと出場を決めた。その後、現在のサーフィン連盟「ASP(アソシエーション・サーフィン・プロフェッショナル」の前身、「IPS(インターナショナル・プロフェッショナル・サーフィン)」を歴代のチャンピオンと共に発起する。日本におけるサーフィンの歴史に、いつも出川はいたのだ。
サーフィンで知り、サーフィンで感じた。
~no brand~何もないということ。
1985年には、自身のライフワークであるサーフボードブランド『ノーブランド』を立ち上げる。ブランド創立から現在まで30年という年月を紡いできた。自分のためのコンペティションボードを製作するために、チューニングを重ね、そのエッセンスをブランドとして形作り、提供するボードに組み込む。ブランドは今も注文が絶えることなく、たくさんのサーファーたちに支持されている。この30年という歴史が、出川の“風をみる”力を物語っているのである。
ブランド名は、考えて、考えて、考えた先に“何もない――no brand”としたそうだ。それはまるで、片時も離れなかったサーフィンというツールを使って自分自身と向き合い続けた、現在の出川の気持ちを物語るかのようなネーミングだ。
ブランドを通じ、何にも変えがたいこの普遍的価値観を共有したい。自分に全てのことを教えてくれた、人生そのものである存在。
そう、サーフィンという。
今、思う何よりの価値。
1950年生まれの出川は、今年65歳になる。
七里ヶ浜の目の前にある自身のショップ、BLUE HORIZONには、結婚30年になる愛妻のえりさんが笑い、愛犬のジルがお気に入りの椅子に上がりくつろいでいる。セレクトされた服やジュエリー、そしてノーブランドのボードが並ぶ店の中は平日というのにお客さんで賑わっている。
波を求めて世界中を巡ってきた。サンセバスチャンで波から上がって飲んだワイン。パンと酢漬けとワインさえあれば良かった。アメリカ西海岸はサンフランシスコからサンタバーバラ、サンディエゴまで、仲間と一緒にどこでも行った。言葉など関係なかった。ハワイの文化は自分にたくさんの学びを与えてくれた。けれど、出川にとって帰る場所はただひとつ。出発点であるこの鎌倉の海岸だった。
まだ子供だった頃、はじめてサーフボードに立ったあの感覚。サーフィンに魅了され続け50年以上経った今でもずっと変わらずにいる。
そのための心の風景にいつもここがあった。
変わらないでいること。その本質は実は何より難しいことだ。けれど、難しいことは承知で出川は願っている。
どこまでも変わらずに生きていくこと、ここにい続けることを。
人生で大切なものを円グラフで表してください。
家族は、30年近く連れ添ったかみさんと俺と息子が一人いるんですが、やっぱりこのファクターは大きいかもしれない。
本当に大切に考えています。
あとは・・・人だね。はっきりしてます。
Profile
出川三千男 MICHIO DEGAWA1950年神奈川県鎌倉市生まれ。1968年湘南学園高等学校卒業。同年米国遊学、ハワイ海洋文化に多大な影響を受け、帰国後、サーフボード製作会社を設立。その後、国内外の多くのサーフィン大会に出場し、70年代のサーフィン文化をリードする。以後、日本のサーフィン界の草分け的存在として活躍し、現在に至る。90年に公開された映画『稲村ジェーン』(桑田佳祐監督)の主人公のモデルの一人とも言われている。71年全日本アマチュアサーフィン大会優勝。