Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]
『目と耳で半分こ』
補完しあうことで広がる、
アスリート夫妻の生き方
聴覚障害アスリート高田裕士
視覚障害アスリート高田千明
聴覚障害者のオリンピック“デフリンピック”の日本代表であり、
400メートルハードル日本記録保持者の高田裕士と、
IBSA WORLD GAMES(視覚障害者の世界大会)日本代表で、
日本女子初のメダル獲得者である高田千明。
トップアスリートであり、夫婦であり、一児の親でもある、
二人の絆を繋ぐものとは。
二人の出会い
裕士と、千明。二人は共に日本を代表する短距離ランナーであり、公私共に支えあう夫婦である。学生時代、共に国体に出場する注目選手であり、顔見知りであった二人が再会したのは、今から7年前、2007年の初夏のこと。明るくて笑顔の絶えない千明と、背が高くて精悍な裕士。陸上にどっぷりとつかり、毎日練習に励んでいた千明は、一緒に練習する仲間に「高田ってやつが千明のことを探しているけど…。」と声をかけられる。
「誰だろう?高田…??ああーーーー!!!。」
競技場で再会し、練習を共にすることになった二人が、仲間と共に同じチームで練習することを決め、お互いを意識し、付き合うようになるまで、自然な流れだった。
正反対の二人
裕士は、1984年11月3日、厳格な両親の元、高田家の長男として誕生した。聴覚に障害を持って生まれた裕士を、「耳が聞こえないことを言い訳にするな!」と、母はとにかく厳しく育てたという。勉強やスポーツはもちろんのこと、その厳しさは裕士の“発音”にまで至った。生まれつき自分の声を聞くことができない先天性の聴覚障害者にとって、発音の習得という壁は高い。むしろ言葉を話すこと自体珍しいそうだが、裕士は自然に言葉を話す。
後に出会う千明も、これにとても驚いたと言っている。そして、もし裕士が喋ることができなければ、全盲の自分との結婚は到底難しかっただろうとも。
母の厳しさは、社会から障害者に向けられる偏見への反骨精神が故だった。裕士が高校を卒業し大学寄宿舎に出発する当日、母はこう伝えたという。「お母さんはお姉ちゃんのことはそっちのけで、18年間、心を鬼にして裕士のことを必死で育ててきました。もうこれからお母さんは何も言いません。自分の人生、好きなように生きなさい」。今や、厳しかったころの面影の片鱗も見えない母は、すっかり性格も、背中も丸くなっているそうだ。思ったらひたすらにやり通すという現在の裕士のポリシーは、ある意味母親譲りなのだろう。
仕事も陸上も、我が子の教育でさえ、これと思ったらとことん考えきっちり調べて、絶対に実行に移す。そして“当たって砕けろ!砕けたら仕方ない!”。どこまでも、全力投球なのだ。
一方の千明は、同じ年の1984年の10月14日、明るい両親のもと、3姉妹の長女として誕生する。明朗活発でちょこまか動く千明は、よく末っ子気質だと言われるそうだ。幼い頃、わずかに視力のあった千明を連れて、両親はあちこちに旅をしたという。成長する過程で視力がゼロになる可能性を抱えていた千明に、いろいろなものを見せてやりたいという愛情だった。それから階段をかけ降りるかのように視力を失っていった千明の記憶に残っているのは、いつも楽しく、笑顔の絶えない家庭。そして、口癖のように言われてきた“なんでも自分で考えて、自分の力で生きていける子になるように”という言葉だった。“親は必ず先に逝ってしまうのだから”と。
千明は、こう言う。「私は障害を大変とか不幸と思って育てられてきていないんです。全盲という障害を持ってはいますが、結婚もして、子供も産まれて、たくさんの人の手を借りながら、陸上や自分の好きなこともやらせてもらっている。自分の思い次第でなんとかなるんです。人生あまり深く考えすぎなくても、声に出して、動いてみればいい。」
愛息、論樹くんの誕生
2008年、北京パラリンピック出場に向けてトレーニングに励んでいた千明は、最終選考でA突破標準記録(当時日本記録)を突破する。しかし、パラリンピックの選考基準は記録だけではない。車椅子や脳性麻痺、切断など様々な障害を持つ選手達が枠数に対して選考されるため、出場選手8枠に惜しくも残ることができなかった。テレビ取材が全ての試合に同行するほどの注目度の中、千明はこの結果に落胆する。しかし、選考を終えたある日、千明はお腹に新しい命が宿っていることに気付く。何よりも嬉しい、神様からのご褒美であった。
12月27日、キリスト生誕の二日後に産まれ落ちたその命は、初めオギャーと声を上げなかったという。一瞬の間をあけ元気に泣き叫んだ命を、看護士は出産に立ち会った裕士にまず抱かせたそうだ。
出産に至るまで、たくさんの不安があった。生まれてきた子供に障害があった場合、自分たちだけで育てていけるのか。障害の種類によっては、想像もできない生活が待っているのではないか。互いの両親が口々にそう述べる中、2人は1つの結論に達する。 「そうなった時は、そうなった時。目が悪くたって、耳が悪くたって、なにが悪くたって生きていける!!!」
裕士に抱き上げられ、そっと口づけされた赤ん坊は、五体満足の元気な男の子だった。二人は彼を“諭樹(さとき)”と名付けた。人生最大の宝物を手にした瞬間だった。
目と耳で半分こ
裕士と千明は暇さえあれば顔をよせて楽しげに言葉を交わし、笑顔を交わすとてもほほえましい夫婦である。2人で1人という意識は強く、例えば外食をする際、目の見えない千明に代わってメニューを読み上げるのは裕士、耳の聞こえない裕士に代わって店員に注文するのは千明、正面から来る車を目で認識し、避けるのは裕士、後ろから来る車の音を耳で聞いて、知らせるのは千明、と分担がある。
時に互いの違いから、気遣って欲しい点や言って欲しいことが異なり、それが夫婦喧嘩につながることもあるそうだが、最近では息子の諭樹が、喧嘩の仲裁に入ってくれるまでに成長し、より家族の絆が深まっている。
パパが一番になるの――!!!
去年、ブルガリアのソフィアで開催されたデフリンピックで、前大会同様日本代表として選出された裕士の応援に、初めて訪れた諭樹は、大興奮。
「パパが一番になるのーー!!!」自慢の父親を大きく声を張り上げて応援した。
結果は、400mハードル初の決勝進出。リレー種目では国際大会でもメダルを獲得している裕士であるが、個人競技でも更なる進化を遂げる結果となった。
裕士の快挙は、諭樹だけでなく、千明の心にも熱く火をつける。アスリートでありながら、母親・妻である千明は、幾度となく家庭と競技生活とのてんびんで揺れ動いていた。しかし、こう胸に誓う。
日本記録を出しながら北京・ロンドンパラリンピックを逃した雪辱を必ず果たしたい…!愛する息子に、希望を持ち続けるところを見せたい…!!そう、心を奮い立たせるきっかけとなったのだった。
人生のハードルを越える
裕士はこう言う。「今、自分の取り組んでいる競技が400mハードルということもあり、ハードルと、人生というものをいつも重ね合わせて考えるんです。というのも、ハードルは日本語にすると“障害”。僕の場合、聴覚の障害ということもありますが、人生には目に見える障害、目に見えない障害がたくさんある。そして、その障害はみんな違うんです。1人1人違うそのハードルから逃げてはいけない。ひっかかっても、ぶつかって転んでも良いんです。越えられなくてもぶつかっていくということを、競技生活を中心にずっとやっていきたい。『ハードル』は、見方を変えれば目標とも言えるんですよね。ジャンプをして越えた先に、自分の夢がどんどん大きくなっていく。飛べなければ違う目標をつくるきっかけにしても良い、いつもハードルを持つことが大事なんです。」
論樹の言葉
取材中、競技場で諭樹の口にした言葉。「お母さんは目見えなくて、お父さんは耳聞こえないけど、すっごいはやいんだ。すごいんだよ。でも、僕が一番はやいんだけどね。」5歳になった諭樹が憧れをもって見つめているのは大好きな両親であり、そんな彼を裕士と千明は希望と共に見守っている。
人生で大切なものを円グラフで表してください。
裕士さん 「家族」「陸上・仕事」「友人」「趣味・読書」
千明さん 「生活」「陸上」「家族・仲間」
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